大関和(おおぜきちか)について

~生立ちや功績など~

2026年春から放送予定の連続テレビ小説「風、薫る」(NHK)のヒロインは、大田原市出身の大関和がモチーフとなっています。

明治のナイチンゲールとも称される日本近代看護の先駆者 大関和(ちか)は、どのような人物であったのか、ご紹介します。

下段、右から二人目が大関和 (注)画像は医療法人知命堂病院所蔵(無断転載禁止)

大関和(ちか)とは

  • 安政5年(1858)4月 大関弾右衛門増虎(黒羽藩家老)と哲(烏山藩士の娘)の次女として、黒羽に生まれる。
  • 明治時代に正規の訓練を受けた看護師『トレインドナース』の1人として活躍した。

和(ちか)、看護婦への道

和が生まれたのは江戸時代の終わり頃です。明治維新を経て、日本は近代化に向け、様々な政策がとられました。医療の近代化もそのひとつです。

コレラや赤痢など伝染病の流行もあり、正しい知識と技術をもつ看護師が必要となりました。そのため、明治20年前後から看護教育が始まります。和が看護師になるための学校に入学したのも、その頃です。

  • 1.和(ちか)の上京

    • 明治9年(1876) 渡辺豊綱と結婚し、2児を授かる。しかし、その後離縁。
    • 明治14年頃 上京 東京で和は、英語を学ぶため植村正度(まさのり)の経営する英語塾に入ります。正度は、キリスト教の指導者である牧師植村正久(まさひさ)の弟です。和はキリスト教に触れ、正久に教えを乞います。正久は、和に看護師となることを勧めた人物でもあります。

    2.桜井女学校附属看護婦学校

    • 日本で最も早い時期に設置された看護師の教育機関のひとつ。
    • 明治19年 桜井女学校のミセス・ツルーにより開設される。
    • 植村正久の勧めで、和は第1期生として入学。初め、和は看護師となることを望みませんでした。当時、看護師は「意気地のない卑しい職業」だとされており、和もそう思っていたからです。しかし、植村に「甚だ高尚な、慈善の職業である。」と諭され、ナイチンゲールの話も交えて説得されました。
    • 桜井女学校では、鈴木雅を含む仲間と共に学ぶ。聖書の講義、看護学や生理学、解剖学等の課程を修めた。
    • 桜井女学校では実習施設がなかったため、帝国大学医科大学付属医院で実習を受ける。指導者は、ナイチンゲール看護学校で学んだ英国看護師ミス・アグネス・ヴェッチ。

    日本で最も早い時期に設置された、その他の看護師教育機関

    【有志共立東京病院看護婦教育所】
    • 明治18年(1885) 高木兼寛により設立。日本で初めての看護師教育機関。
    • 現在の慈恵看護専門学校の前身。
    • 高木は留学先のセントトーマス病院のナイチンゲール看護婦学校での教育を目指し、指導者に米国看護師ミス・リードを招き本格的な看護師教育を始めた。
    • 看護婦教育所の建物は、婦人慈善会の寄付により建てられた。
    • 婦人慈善会は、華族や政治家の夫人により結成されました。メンバーには大山捨松(大山巌夫人)などがおり、捨松は資金を集めるため鹿鳴館で慈善バザーを開催しました。
    【京都看病婦学校】
    • 明治19年(1886) 新島襄により設立。
    • 看護師を養成するために来日した米国人看護師ミス・リチャーズが看護教育にあたる。

トレインドナース(正規の訓練を受けた看護師) 大関和

  • 1.桜井女学校附属看護婦学校卒業後

    • 明治21年(1888)

      帝国大学医科大学第一病院の初代外科看護婦取締(外科の看護婦長)に就任。3年ほど勤務し退職。

  • 2.新潟県高田時代 ※現在の上越市

    • 明治23年(1890)

      帝国大学医科大学第一病院を退職した後、新潟県の高田女学校へ舎監兼伝道師として赴任する。

    • 明治24年(1891)

      かつての恩師であった瀬尾原始と偶然再会し、瀬尾が院長を務める知命堂病院の看護長に就任。

    • 明治27年(1894)

      知命堂病院産婆看護婦養成所の講師として、後進の育成に努める。

      伝染病に関する講義なども行ったようです。和の教え子の中には、新潟県内で赤痢が流行した際、防疫対策で活躍した看護師もいたようです。

    • 明治29年(1896)

      知命堂病院を辞め、東京に戻る。

  • 3.東京での活躍

    • 明治29年(1896)

      東京看護婦会講習所講師に就任。※東京看護婦会は、桜井女学校附属看護婦学校の同期である鈴木雅が設立しました。

      看護師の質の低下を憂いて、内務省衛生局に直訴する。

    • 明治33年(1900)

      「東京府令 看護婦規則」が制定されます。

    • 明治34年(1901)

      東京看護婦会会頭に就任。

    • 明治36年(1903)

      日本婦人矯風会の衛生課長兼遺伝課長となる。

    • 明治42年(1909)

      大関看護婦会を設立し、大関看護婦講習所を開所。

    • 大正12年(1923)

      大関看護婦会も罹災。

    • 昭和7年(1932)

      5月22日死去。享年75歳。

執筆活動

  • 明治32年(1899)

    『派出看護心得』を出版。

    ―「夫れ看護婦たらんとする者は先づ普通の看護学を修むるを要す。精 神に於ては仁慈、敬愛、温和、忍耐、謙遜にして挙動静粛、品行方正言語を慎み、医師に対しては能く其命を守り患者に対しては貴賤上下の別なく一様に信愛を以て其本分を尽さゞるべからず。」

  • 明治41年(1908)

    『実地看護法』を出版。

    ―「看護婦の資格」として

    「一、看病婦は慈愛と忍耐とを以て患者に接し清潔と消毒の二法に よりて職を全ふする者でなければなりません」、「一、看病婦たる者は性質温和にして常に身体を清潔になし務めて患者の安全を計り其順序を正うし患者のために絶へず注意して自己の本分を尽すを以て第一の義務といたします」

    ―「看護婦心得」として

    「一、看病婦は患者の精神を慰藉すると同時に其肉体は清潔になし、能く衛生を保たしむる様、常に心を病人の上に注ぎ、何時も麗しき顔を以て患者に接し、いかなる場合もよく忍耐して決して不平の心をもたず、不快の念を起さしめざる様、注意致さねばなりません」

    病気療養のため、那須湯本に逗留中に執筆した。

日本の看護師の先駆者

大関和の業績は、傷病人への献身的な看護だけではありませんでした。

  • 1.看護技術の向上や後輩看護師の育成に尽力

    • 看護師として働くだけでなく、知命堂病院産婆看護婦養成所や東京看護婦会講習所では講師も努めました。

    2.感染症対策と公衆衛生の普及に尽力

    • コレラや赤痢などの感染症は、多くの人々の命を奪う恐ろしい病気でした。和は看護学校で学んだナイチンゲール方式にもとづき、排泄物の正しい処理、丁寧な清掃と換気、患者の身体や衣服を清潔にすることを徹底し、大きな効果をあげました。

    3.看護師の仕事やその存在の重要性について普及活動にも尽力

    • 明治32年(1899)に『派出看護婦心得』を、同41年(1908)に『実地看護法』を刊行するなど、著書の刊行や雑誌への寄稿を通して、看護師の重要性や意義、実践方法について普及啓発を図りました。

以上のようなことから、和は、「日本の看護師の先駆者」といえます。そして、このような偉人が生まれ、幼少期を過ごしたのが大田原市(黒羽)なのです。

【主要参考文献】

  • 大関和子「望みなき良人に別れて看護婦となりし私の慰藉」(『婦人世界』第3巻第12号、1908年)
  • 亀山美知子『大風のように生きてー日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年
  • 『広報くろばね』第243号(黒羽町、1983年12月25日)所載「黒羽を築いた人物群像30大関和」
  • 田中ひかる『明治のナイチンゲール大関和物語』中央公論新社、2023年
  • 森川政一『知命堂病院付属産婆看護婦養成所史』知命堂病院、1986年
  • 森川政一『知命堂病院看護婦養成所創設の経緯と二人の恩人』「知命堂病院看護婦養成所創設の経緯と二人の恩人」冊子作成の会、2016年

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