近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。