仁徳天皇(313~399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。
その後、那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)には大関氏によって本殿・拝殿・楼門(写真)が再興されたと社記は伝えています。
社宝には、那須与一が奉納したといわれる太刀や寛永19年(1642年)の建立と推測される楼門などがあり、春と秋の例大祭に奉納される永代々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名です。那須神社の獅子舞の起源はさだかではありませんが、大関増清が応永年間(西暦1394年~西暦1428年)に、余瀬に白旗城築城の際、地鎮として舞われたものであると伝えられています。
金丸八幡宮(現那須神社)は、黒羽(くろばね)藩主大関氏累代の崇敬の的であり、9月15日の例大祭には城主みずから参拝し、舞を鑑賞したといわれております。
流鏑馬:文治元年(西暦1185年)那須与一が屋島での戦功により那須の総領になるや、同3年(西暦1187年)土佐杉をもって社殿を再建し、社領を寄進しました。わけても陰暦8月15日の例大祭は壮厳で、京都から神職や伶人を呼び、舞楽の奉納や、流鏑馬の騎式などを行い終日神意をなぐさめたと伝えられています。流鏑馬は、今も古式ゆかしく行われています。
那須与一が源平屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と、心に念じた神社とも伝えられています。本殿全体の彫刻や彩色、楼門全体を彩る装飾などは独創的で、「中世と近世の特徴を併せ持つ神社建築」として高い評価を得ています。


平成26年3月18日に本殿と楼門が国重要文化財に指定され、更におくのほそ道風景地名勝にも指定されました。
松尾芭蕉は元禄二年(1689年)、古歌の名所、由緒・来歴の地を訪ねて江戸から美濃大垣まで、みちのく・北陸路を旅し、紀行文学の傑作である「おくのほそ道」を完成させました。芭蕉とその弟子の曾良が作品に書き留めた風景は、近世以降人々の風景観に影響を与え続け、今なお往事の雰囲気と遺風を伝える一体の風致景観を誇っています。
「おくのほそ道」と「曾良旅日記」に記載のある風景地のなかで、風致景観や遺存状況が良好な地点がおくのほそ道の風景地として一連で名勝に指定されています。八幡宮(那須神社境内)は、黒羽滞在時に故事来歴の地を訪れたうちの一つで、寛永年間に建造された本殿や楼門などの社殿があり、参道の両脇には杉並木が続いています。