社伝によると、久寿2年(1155年)に須藤権守貞信、千葉介常胤、三浦介義明、上総介広常等が勅を受けて那須野の九尾の狐を退治したとき、弓矢の神、八幡宮をこの地に勧請して祀ったという。これを狩野の八幡宮と称した。天正4年(1576年)大関高増が黒羽城を築くにあたり、筑紫の宇佐八幡宮並びに山城の男山八幡宮の分霊を勧請して、八幡館跡に神社を建て北八幡宮を称した。その後、大関増業が多治比の祖霊を合祀した。勝海舟撰文の藩主増裕の碑、社掌小泉斐の碑、水戸の立原萬翠軒撰文の修建梁碑。